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<ナンバーノンフィクション> 草の根からの王国復活。~体操・田中和仁、佑典、理恵の三兄妹を育てた、体育教師の情熱~ 

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浅沢英

浅沢英Ei Asazawa

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photograph byToshiya Kondo

posted2012/07/21 08:00

<ナンバーノンフィクション> 草の根からの王国復活。~体操・田中和仁、佑典、理恵の三兄妹を育てた、体育教師の情熱~<Number Web> photograph by Toshiya Kondo

凋落する日本と入れ替わりに台頭したロシア男子体操。

 日本の男子体操が黄金期の栄光から遠ざかっていくのと入れ替わりに台頭したのは、かつて2番手に甘んじ続けたソ連だった。最盛期、ソ連は数十万人の体操人口を抱えていると言われていた。広大な国土に幾つかの選手養成機関の組織が張り巡らされていて、何重もの選抜を経たエリートの卵がモスクワの施設に集められ、ジュニア期から五輪を目指した体系的な指導が行なわれていた。警察系の養成機関だったディナモは軍隊系のチェスカと並ぶ双璧で、旧ソ連が崩壊しロシアとなった後も選手育成の一大拠点であり続けていた施設だった。

 そのディナモから、指導の責任者である主任コーチを短期のジュニア指導で和歌山に招聘できないか。水口と尾嵜の突飛な発想を、田中は雷に打たれたような気分で聞いていた。

 和歌山城のすぐ西にある県庁へ赴いた。

 県の体育協会で行なっていた〈アドバイザーコーチ招聘事業〉の予算を使えないかと相談をもちかけると、担当者は「ロシア?」と問い返した。招聘事業はそもそも国内のトップコーチ招聘を対象にしたものだった。

「おそらく、海外からコーチを呼ぶというのは、和歌山では初めての計画だったんじゃないでしょうか」

 と田中は言う。

 田中は担当者に、話の趣旨を説き続けた。

「旧ソ連の選手たちの技の美しさ、正確さに感服していました。その指導者のノウハウをもらいたい。ディナモという言葉を聞いたときに思ったのは、そのことでした」

予算不足のハードルを越え、アンドレイ・ズーディンの招聘が実現。

 田中が手元に残していた、ロシア人コーチによる練習会の開催要項案には、アンドレイ・ズーディンを紹介したこんな文章が記されている。

〈ロシア国最強の体操クラブに所属し、オリンピック・世界選手権などでロシア代表として活躍している選手を育てたコーチである。ジュニア指導の技術においては世界屈指の指導技術を持ち合わせたコーチであります〉

 だが、ロシアからの旅費、和歌山でのホテル代、食事代、通訳の費用、コーチへの謝礼等々、出費の総額を考えれば、補助金ですべてがまかなえるわけではなかった。

 当時、日本の最高クラスの指導者を招聘すれば、1日の謝礼は5万円が相場と言われていた。田中は体裁もかまわず「なんとか3万円でお願いできないか」とロシアへ打診した。快諾が返って来た。それでも費用は足りなかった。

 田中は、和歌山オレンジ体操クラブで組織していた保護者会に協力を要請した。和歌山オレンジは伊熊や田中たちが育ててきたクラブだったが、彼らは、すべてボランティアで指導にあたっていた。クラブで集めた指導料は、ジュニア体操クラブ連盟への登録費や競技会への参加費などの支出にそなえて保護者会で管理されていた。保護者会の快諾を得て、アンドレイの招聘は実現した。

 アンドレイを招いた最初の練習会が北高の体育館で行なわれたのは2000年1月2日から7日のことである。練習会の前日、田中はアンドレイの宿泊先として用意した和歌山市内のホテルで彼を出迎えた。

「ナイス・トゥ・ミーツ・ユー」

 最初の挨拶は英語だった。

【次ページ】 通訳を通じて耳に飛び込んできた驚くべき言葉とは。

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