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北区赤羽で昭和の哀愁に萌える。
団地から、日本の未来が見えてきた。 

text by

疋田智

疋田智Satoshi Hikita

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photograph bySatoshi Hikita

posted2011/10/28 06:00

北区赤羽で昭和の哀愁に萌える。団地から、日本の未来が見えてきた。<Number Web> photograph by Satoshi Hikita

故郷である宮崎県日南市の懐かしい団地にて。25年ぶりにわざわざ訪ねたおり、記念に撮影したワンカット

高島平団地。そこは昭和後期の象徴である。

 高度成長の昭和は、今より貧しかったけれど、やはり今よりも時代そのものが明るかったと思う。閉塞感漂うこの平成の秋に、川沿いの公園を見つつ、工場を見つつ、ぐるぐると自転車でめぐると、どうしてもそういうことを思う。

 だいたい、こうした工場だって、今や「ここに在ること」の方が奇跡だ。ここ最近のバカバカしいほどの円高の中、工場はみな中国やアジア諸国に移ってしまった。

 曲がり角はどこにあったんだろうなぁ。

 やはりバブルの'90年代初頭? それとも……?

 さて、ここからもう1つの大規模団地、高島平に行ってみよう。

 途中で北区から板橋区へ入っていく。

 そこに待つのは、おそらく石油ショック後の昭和、すなわち昭和の後期である。

 高度成長は終焉を迎え、低成長には入ったものの、それでも日本は強く、やがて、ジャパン・アズ・ナンバーワン、そして、バブル前夜へと驀進していく昭和。

 道を行くごとに、なんだか昭和の中期から、昭和の後期に入っていく思いだ。

純白で、モダンで、清潔な“未来生活”がそこにあった。

 浮間からいったん戻って、国道17号線(中山道)を通り、志村坂上を曲がって、高島通りに入る。

 おお、高島通り。文字通り高島平団地を東西に貫く、目抜き通りだ。

 駅で言えば、高島平があり、新高島平があり、西高島平がある。地下鉄・都営三田線が高架になり、高島通りの上空を走っている。

 この三田線高島平駅(当時は志村駅)の開業が昭和43年。

 高島平のニュータウンはこの三田線とともに成長している。当初は高島平から巣鴨までだった路線が、やがて昭和48年に三田までのびる。

 一方、旧住宅公団による高島平団地のスタートは、昭和47年のことだ。この大規模団地からは、ピカピカの頃から都心まで一直線に地下鉄で繋がっていたのだ。

 都営地下鉄一直線以外に、もう一つ、これまでの団地と圧倒的に違っていたのは、ここが高層アパートばかりの“日本一、背の高い団地”(当時)だったことだ。

 さて、高島通りを通って、右手にその高島平駅だ。

 着いてみると左手に細長い公園が広がり、その向こうに、林立してるよ、高層団地。

 うーむ……。

 これまた懐かしい。

 私自身は、高層団地に住んだことはなかったけれど、小学2年生くらいの頃、私の友達はこういうところに住んでいた(当時の少年ヒキタは、神奈川県川崎市にいました。私は転勤族の子弟だったのです)。

 その友達の家に行ったとき、私は「カッコいいぃぃぃぃ」と思ったものだ。

 玄関からまっすぐ伸びた廊下があって、その両側にドアが10以上も並んでいた(ように見えた)。壁から何からすべてが、純白で、モダンで、清潔で「うわー、これぞ未来生活」と思ったものだ。

 本当はね、子供だからそう見えただけで、廊下のドアが10以上つって、本当はそんなにあるわけがない。

 廊下の突き当たりがLDKへのドア。トイレとお風呂が1つずつ、廊下に面した小さな部屋が1つか2つで(つまり2LDKか3DK)、合計4つか5つというに過ぎなかったんだろう。

 けれど、子供心にはそう見えた。

 少年ヒキタだけじゃないぞ。こうした高層アパート生活は、この時代のすべての人々のあこがれだった。

【次ページ】 かつての高島平が背負ったネガティブイメージとは?

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