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野球のちから。 

text by

小関順二

小関順二Junji Koseki

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photograph byNIKKAN SPORTS

posted2006/01/26 00:00

野球のちから。<Number Web> photograph by NIKKAN SPORTS

 先日、友人の西尾武、鯉渕庸彦氏と酒を飲んでいるとき、文学作品の中で描かれている野球について話が盛り上がった。僕が佐藤正午、重松清という好きな作家の作品を持ち出すと、2人は小川洋子著『博士の愛した数式』が面白いと言う。それで先日、文庫版の同書を買って読み始めたのだが、これが見事にはまった。記憶が80分しか持続しない主人公の老数学者が、野球を数学で表現する場面がとても新鮮なのである。

 たとえば「28」という数字は完全数として登場する。28の約数は1、2、4、7、14。これをすべて足すと28になる、だから完全数である。プロ野球界選手で「28」の背番号を背負っているのは古今、枚挙に暇がないが、最も有名なのは阪神時代の江夏豊ではないか。この江夏は、老数学博士の最大の贔屓選手として本書に登場する。

 こんな場面も描かれている。ちょっと長いが引用する。

 「ピッチャーがモーションを始動させ、ボールを放すまでに0.8秒。ボールがキャッチャーミットに届くまで、今のはカーブだから0.6秒。ここまでで 1.4秒経過。ランナーが走る距離は、リードを取っていた分を差し引いて24メートル。ランナーの50メートル走が……二塁に到達するのに……よってランナーを刺すためにキャッチャーに残された時間は1.9秒である」

 僕は'02年8月以降、ストップウオッチ持参で野球を見続けているが、この場面に紹介されている数字はどれもこれも非常に正確である。著者はどうしてこういう数字による野球観戦を思い至ったのだろうか。僕の知る限り、こういう野球観戦は僕を除けばスカウトと一部の野球関係者以外、あることすら知らなかったはずだ。

 野球を数字だけで見るとドラマ性が失われ、無味乾燥なものになると思い込んでいる人が大多数だろう。しかし博士が言うように、「野球ほど多彩な数字で表現できるスポーツは他にない」のである。そんな野球の一側面をこの小説は最高の形で創出した。

 この本は野球小説ではない。主役は数学である。ほとんどの人が一目見ただけで遠ざけようとする数式を堂々と物語の中心に置き、老博士の孤独や孤高を鮮烈に浮き上がらせる。その孤独や孤高を、プロ野球は温かく柔らかいものに変えていく。野球の価値とはそういうものだと、一読してから思い至る。世の中に野球がなくても生活に困る人は少ないが、生活に彩りがなくなるという人は多い。だから、いわゆる野球小説ではなく、重松清や佐藤正午のように、生活の断片に野球を紛れ込ませた作品ほど野球の楽しさを濃厚に醸し出していくのだろう。ちなみに、本書は次のように締めくくられる。

 「マウンドに漂う土煙の名残が、ボールの威力を物語っている。生涯で最も速い球を投げていた江夏だ。縦縞のユニフォームの肩越しに背番号が見える。完全数、28。」

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