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ポーランド移民のドイツ代表選手は、
何を思う。 

text by

熊崎敬

熊崎敬Takashi Kumazaki

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photograph byShinji Akagi

posted2008/06/02 00:00

ポーランド移民のドイツ代表選手は、何を思う。<Number Web> photograph by Shinji Akagi

 '93年のEU発足以来、ヨーロッパの国境線はずいぶんと影が薄くなった。しかしサッカーの国際試合が、それを改めて強く印象づけることがある。

 2006年6月14日、ドルトムント。ワールドカップのグループリーグ第2戦で、開催国ドイツが隣国ポーランドを迎え撃った。

 決戦当日、フランクフルトの新聞は風変わりな見出しを打った。

 〈ポーランド対ポーランド〉

 ドイツのツートップ、クローゼとポドルスキが、いずれもポーランド出身という事実が、この見出しの前提となっている。

 ドイツはノイビルのゴールによって、この試合を1対0で制した。ポーランド戦の不敗記録を11勝4分けと更新した彼らは、開幕前の下馬評を覆し、最終的に3位に食い込む。その快進撃を支えたのがクローゼとポドルスキだった。前者は5ゴールを奪って得点王に輝き、後者も3ゴールを記録。早々と敗退したポーランドのメディアからは、

 「ポーランド人がいなければ、ドイツ代表など大したことはない」

 というやっかみの声が上がった。

 クローゼとポドルスキは、ポーランド南西部のオーバーシュレージエン地方で幼少期を過ごした。この地域は中世以来、帰属国が次々変わったという過去があり、20世紀に入ってもドイツとポーランドの狭間で揺れ動いた。ポーランド領に落ち着いたいまも、ドイツ系の住民が数多く暮らしている。

 豊かな生活を求めて、この地からドイツを目指す人々は後を絶たず、ふたりも幼いころ家族に手を引かれてドイツへと渡った。

 クローゼの脳裡には、そのときの記憶が鮮明に焼きついている。

 「僕は8歳のとき、家族とともにフリートランドの入国管理センターにたどり着きました。そこでは多くの移民が寝泊りしていて、四六時中だれかが泣いていました。ドイツへの入国が許され、遮断機が上がったとき、新しい人生が幕を開けたように感じたのです」

 クローゼの一家はドイツ西部の寒村に移り住んだが、灰色の人生が一夜にしてバラ色に変わったというわけではない。「はい」と「ありがとう」しかドイツ語を話せないクローゼ少年は、小学校で2年間の留年を余儀なくされた。書き取りの補習に追われる中、移民という自らの境遇を恨んだこともあったろう。だが、広場で毎日興じていたサッカーが彼の運命を変えるのである。

 点取り屋クローゼの評判はポーランド協会にも伝わり、祖国の代表にと誘われた。7歳年下のポドルスキも背番号10の入った代表ユニフォームを贈られて、熱心に勧誘された。だが、ふたりがポーランド代表としてピッチに立つことはなかった。

 二者択一を迫られた移民選手の多くがドイツ国籍を選択するのは、経済的に恵まれたブンデスリーガで稼ぐには、外国人よりドイツ人の方が有利だという現実がある。力量が同じなら、ドイツ人の方が優遇されるからだ。近年もハンブルクのトロホウスキ、ブレーメンのボエニシュなど、ポーランド出身の優秀な若手が次々とドイツ代表に“鞍替え”し、ポーランドの人々を失望させた。

 ちなみに、この原稿に登場した4選手はいずれもポーランド出身でありながら、ドイツ人の血を引いている。「強奪された」という非難は、ドイツにしてみればお門違いだろう。

 負の連鎖を食い止めようと、ポーランド協会は本腰を入れ始めた。U-17とU-20の代表監督を務めるクロビシュは、ポーランド名を持つダイヤの原石を掘り起こそうと、探偵さながらにドイツ国内に目を光らせている。効果は徐々に上がり始めたようだ。

 6月8日、クラーゲンフルトでドイツを初めて破れば……。次回のユーロ開催を控えるポーランドに、追い風が吹くかもしれない。

ミロスラフ・クローゼ
ルーカス・ポドルスキ

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