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小川直也が「プロレスラー」になった日。 

text by

丸井乙生

丸井乙生Itsuki Marui

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photograph byTadahiko Shimazaki

posted2006/01/13 00:00

小川直也が「プロレスラー」になった日。<Number Web> photograph by Tadahiko Shimazaki

 プロレスラーは、一体いつからプロレスラーとなりうるのだろうか。野球、サッカーなど他競技のように連盟、ライセンスが存在しないため、どこかの団体に所属してデビューした時点で周囲から「プロレスラー」として認識されることになるのだが、非常に曖昧な境界線である。90年代に入ると雨後の竹の子のようにワサワサと団体が乱立し、受け身など自分の身を守る技術を完全に習得しないままデビューしてしまう例もみられた。さらに、ゴージャス松野さんのように人生の袋小路に陥った人々が一発逆転でデビューを飾った例もある。しかし、自他共に認める力量を持ちながらも、プロレス界では異端視される男がいる。それが小川直也だ。

 常に、賛否両論がつきまとってきた。柔道時代は金メダルを確実視されながら、92年バルセロナ五輪で銀メダルに甘んじ“国賊”扱いされた。一大決心で旅立った先のプロレス界でも、世間が小川に最強の理想を押しつければ押しつけるほど、プロレス独特の技、マイクパフォーマンスのぎこちなさが際だった。ただ、傑出した存在感、ここぞという時の強さは誰にも真似できない。世間のイメージはいまだに「プロ格闘家」だった小川について、プロレス界は「果たしてプロレスラーと呼べるのか」と賛否両論の的としてきた。

 その小川が昨年大みそかのPRIDE「男祭り」に出場した。相手は犬猿の仲である明大柔道部の後輩・吉田秀彦。あとは谷亮子が格闘家に転向しない限り、後にも先にもこれほどの大物対決はないだろう。大会前の会見では、注目度の高い大会に自分が出場することによって「プロレス界に熱を取り戻したい」と話したが、プロレスのコアなファンにとっては「プロレス代表」という言葉に違和感をぬぐいきれなかった。小川は直前会見を「温泉に行っています」と欠席し、不遜な態度をとり続ける。やはり賛否両論を引き起こしながら、大会当日を迎えた。

 しかし、小川は今にも泣き出しそうな顔で現れた。入場ゲートに立ったその目には「暴走王」として名を馳せる殺気ではなく、寂しさが漂う。これから、明大柔道部の後輩を殺しに行く。エンターテインメント系プロレスイベント「ハッスル」を牽引し、「明るく楽しいプロレス」を理想とする現在の小川にとって、「殺す」ことはもう自分の範疇ではない。生身の感情にあふれた入場シーンだった。

 入場曲に、昨年7月11日に亡くなった盟友・故橋本真也さんのテーマ曲「爆勝宣言」を使用することにも、これまた賛否両論があったという。商業主義のにおいを感じ取った向きもあったようだが、考えてみたい。大みそかのゴールデンタイムに橋本さんの存在を、そのテーマ曲をテレビで放映する力を持ったプロレス団体が今、あるだろうか。親しい人の死に際し、小川は橋本さんを利用したかったわけではなく、橋本さんを歴史に残すことが今の自分にできることだと判断して入場曲に「爆勝宣言」を選んだのだろう。

 試合には、敗れた。その後6分間、マイクを握った小川のワンマンショーが始まる。「吉田、お前これから頑張れよ」と声をかけ、吉田が「はい」と頭を下げた。同じ畑で育った者同士が、犬猿の仲を超えた瞬間。傍目には美しい友情物語である。ところが「頑張れよ」と言った後に、「一緒にハッスルやってくんねえか」と吉田脱力の一言。試合中に左足くるぶしを負傷したため、ケンケンしながら「おぶってくれよ」と追いかけたが、あっさり断られる。実にカッコ悪い。それでもくじけずに「俺、きょう転んだけどよ、必ず起きあがってくるから」と観客全員に呼びかけてハッスルポーズを決めると、橋本さんへメッセージを送った。

 「橋本、お前に勝ち星あげられなかったけど、俺は。俺はお前にありがとうと言いたい。ありがとう」

 心の底から絞りあげた絶叫だった。

 祭りのあと。踊り疲れた足を引きずって、皆が皆、家路につく。「終わっちゃった」の寂寥感に包まれるのが常だ。しかし、男祭りの小川直也。「人間・小川直也」のままで会場に現れ、プロレスラーならば一番の見せ所となる入場シーンに橋本さんのテーマ曲を使い、会場を熱狂させた。そして、カッコ悪い敗戦後はそれを忘れさせるほどのマイクで締める。世紀の対決には吉田との人間ドラマに加え、試合前から終了まで人生の喜怒哀楽が詰まっていた。

 橋本さんは生前「プロレスは人生の春夏秋冬を表現するもの」と言った。ありがとう。小川は橋本さんのプロレス観を吸収し、そして実践し、ようやく自他共に認められるプロレスラーになった。

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