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室伏広治のゴールはメダルでも記録でもない。 

text by

小川勝

小川勝Masaru Ogawa

PROFILE

photograph byKeijiro Kai

posted2008/07/24 18:34

室伏広治のゴールはメダルでも記録でもない。<Number Web> photograph by Keijiro Kai

 今年の4月30日、愛知県豊田市の中京大で、大阪GP欠場に関する記者会見を開いた時、ひと通りの質疑応答が終わると、室伏は「せっかくの機会ですから……」とパソコンを立ち上げ、報道陣を相手に「講義」を始めた。壁にスライドを映して、最近の練習内容や、理想のフォームについて説明した。そしてその時、最後に1枚の写真を見せたのである。

 それは、彼が講演などでしばしば言及している、紀元前5世紀、古代ギリシャの彫刻家ミュロンの有名な作品「Discobolos(円盤投)」の写真だった。

「これが僕の最終目標です」と彼は言った。「僕はこうなりたいんです。これが理想なんです」

 室伏の近況を知るために集まった報道陣の前では、いささか場違いに思えるほどの、純粋なメッセージだった。

 ミュロンの彫刻の、どこにそれほど魅力があるのか。それは、記録や順位を追い求める欲望というものが、まったく感じられないことだと彼は言う。そのような投てきをすることこそ「最終目標」だと言うのである。

 もちろん室伏も、現実の世界に生きている。所属企業の期待もある。それでもなお、金メダルは大事だが、最終目標ではない。世界記録も、魅力はあるが、最終目標ではない。記録や順位といった欲望から自由になること。そういった、理想のアスリートに近づく方法として、ハンマー投を捉えているのだ。

 彼はそのことを行動で示してきた。昨年、やはり金メダルを期待された大阪世界選手権で6位に終わった時、沈んだムードの報道陣に囲まれると、まるで周囲を諭すように、静かにこう言った。

「なぜ下を向かなきゃいけないんですか? ――僕は今日、自分にできることをやった。別の日なら、また違った結果だったかも知れないわけです」

 謝罪したり、押し黙ったり、質問に苛立ったりはしなかった。彼には、敗者のムードというものが全然なかった。

 この時の80m46は、'05年大会なら銅メダルに相当する好記録。それ以上に、他の選手が素晴らしかったのだ。試合後、彼は優勝したチホンと一緒に、国旗を持ってトラックを走り始めた。観客の声援に感謝して回ったのである。金メダルを期待される中、メダルを逃した日本のアスリートで、こういう行動に出た選手は、ちょっと記憶にない。

 それもこれも、心の中に持っている「最終目標」が、記録や順位ではないからだ。

 こうした室伏の競技哲学の背景に、父・重信の存在があることは疑いない。33歳になった室伏にとって、38歳で自己ベストの75m96(日本歴代2位)を投げ、41歳まで現役で活躍した重信の経験は、ますます大きな意味を持ち始めている。

 重信は、ミュロンの彫刻が「最終目標」という考え方に、息子の美学を感じるという。

「スポーツをやる意義は、自分を高めていくということ。しかし、ただ高めていくのは空しい。そこに個人の美学というものが出てくる。(彫刻は)息子がいろいろなものと接する中で、見出したものでしょうね」

 重信自身は'72年(8位)、'76年(11位)、'84年(14位)と三度の五輪に出場、入賞1回という結果を残した。しかしこう言っている。

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