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<そりと会話しながら> 原田窓香 「リュージュにかける青春」 ~特集:バンクーバーに挑む~ 

text by

折山淑美

折山淑美Toshimi Oriyama

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photograph bySatoko Imazu

posted2010/01/31 08:00

<そりと会話しながら> 原田窓香 「リュージュにかける青春」 ~特集:バンクーバーに挑む~<Number Web> photograph by Satoko Imazu

歓声渦巻くトリノの会場で心に沸き立った勝利への意欲。

 持ち前の度胸の良さとのみ込みの早さで力をつけると、'02年ソルトレイクシティ五輪の頃には、2大会連続で五輪へ出場した小林由美恵に次ぐ2番手に。彼女の引退後はそのまま日本のトップとなり、'04年からはW杯にも出場するようになった。世界選手権でも'04年は21位、'05年は20位の成績を挙げ、'06年トリノ五輪へと駒を進めた。

「でも、欲はなかったですね。もともと強くなりたいとか速くなりたいとかいうのがないまま始めていたから、気持ち良く滑れればいいとしか思っていなかったんです。だから、五輪を意識するようになったのは前のシーズンくらいからだったし、本番でも無事に滑り降りてきたいと思っていたくらいで」

 トリノのコースは世界でも有数のテクニカルなコースで、トップ選手でも転倒する者が続出した。滑り降りることだけが目標だった原田は、終わってみたら13位になっていた。

「W杯でもなったことがない順位だし、日本女子で歴代2番目の順位だからうれしかったですね。それに、よく一緒に練習させてもらっていたイタリアの選手が男子1人乗りで優勝して会場がものすごく盛り上がった。それを目の当たりにして、こういうところで勝つとどのくらい気持ちがいいんだろう、やっぱり勝たなくては、という思いが強くなってきたんです。それでバンクーバーを狙って、しっかりやっていこうと思いましたね」

バンクーバーを目指すためにイタリア留学を決意。

 イタリアのワルター・プライクナー監督が長野五輪で日本のヘッドコーチを務めていた縁もあり、W杯へ行くと日本チームはイタリアチームと一緒に練習をすることが多かった。

「ただ、練習で滑ったあとワルターさんとトランシーバーでやりとりするときに、日本人のコーチに通訳してもらっていたんです。だから、微妙なニュアンスまで理解するためにダイレクトにやりとりしたくなって。それに、イタリアの夏場のトレーニングにも興味があったし」

 両親に相談してイタリア留学を決めた原田は、トレーニングに関する知識や言葉はある程度身につけていったほうがいいと、1年間の準備期間をおくことにした。

【次ページ】 ヤマハ発動機から年間100万円の助成金を。

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