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『ふたつの東京五輪』 第4回 「選手村で世界と出会う(1)」 

text by

松原孝臣

松原孝臣Takaomi Matsubara

PROFILE

photograph byPHOTO KISHIMOTO

posted2009/06/25 11:00

『ふたつの東京五輪』 第4回 「選手村で世界と出会う(1)」<Number Web> photograph by PHOTO KISHIMOTO

自由でおおらかだった選手村での取材。

 選手村には、選手たちの泊まる部屋、食堂はむろんのこと、美容室や、夜はゴーゴーダンスの会場として使用されることになったホールなどがありました。滞在の長い選手であれば、1カ月近くを過ごすのです。少しでもくつろげる場所にしたいという組織委員会の人々の思いがきっとこめられていたのでしょう。

 ところで、東京オリンピックの選手村が特別な場であった、と最初に申し上げました。それには二つの理由があります。取材パスさえあれば、村内に自由に出入りし、選手たちと自由に接することができたということがひとつです。東京の次のメキシコオリンピックでもまだ可能でした。しかし、1972年のミュンヘンオリンピックでは、あの痛ましい事件(パレスチナゲリラが選手村に侵入し、最終的にイスラエルの選手11名が惨殺された事件)があったため、厳戒態勢が敷かれることになりました。

 以後、どの大会をとってみても、東京のように取材する立場の人間が自由に出入りすることはできなくなりました。

 今日では、開会する前に開かれるメディアツアー(見学会)に参加するか、大会の期間中であればデイリーパスというその日限りの取材カードを取得して、

「インターナショナルゾーン」と呼ばれるエリアで記者会見などの限定した取材ができるのみです。宿泊棟には出入りできず、選手たちがどのように過ごしているのかを見ることはできません。

字義通りの“選手村”だからこそ、選手の素顔が見えた。

写真

日光浴を楽しむ海外の選手。彼らは我が家にいるかのようにくつろいでいたという

 ふたつめの理由は、アメリカの郊外を思わせるような広大な敷地だったからこその、おおらかな雰囲気です。メキシコオリンピック以降の選手村では、おおむね、マンションのような建物に選手は住むことになりました。東京オリンピックでは、広い空間であったからこそ、選手が伸び伸びと、まさに生活しているように毎日を過ごしていました。そのさまは失われてしまったのです。本来の意味での村ではなくなったといえるのかもしれません。

 そういえば、昨年行なわれた北京オリンピックでは、高層マンションのような建物がずらりと選手村の中に並んでいましたね。大会が終わったあとに、民間に売却する計画だったからだそうです。いずれにしても、東京のときの、あののどかな雰囲気はもうないのです。

 他のオリンピックにはなかった、広大で、おおらかな空間で、選手たちが見せた素顔はどのようであったか。

 それは次回のお話となります。

岸本健

岸本 健きしもと けん

1938年北海道生まれ。'57年からカメラマンとしての活動を始める。'65年株式会社フォート・キシモト設立。東京五輪から北京五輪まで全23大会を取材し、世界最大の五輪写真ライブラリを蔵する。サッカーW杯でも'70年メキシコ大会から'06年ドイツ大会まで10大会連続取材。国際オリンピック委員会、日本オリンピック委員会、日本陸上競技連盟、日本水泳連盟などの公式記録写真も担当。
【フォート・キシモト公式サイト】 http://www.kishimoto.com/

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