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中嶋悟 「ファンの人たちにこたえたかった」 

text by

生島淳

生島淳Jun Ikushima

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posted2006/10/12 00:00

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[ドライバーが見た鈴鹿]中嶋悟 「ファンの人たちにこたえたかった」

生島淳=文

text by Jun Ikushima

 中嶋悟。'87年に日本人として初めてフルタイムのF1ドライバーとして最高峰のレースに参戦。ロータス、ティレルで5年間活躍し、'87年のイギリスGP、'89年のオーストラリアGPでは4位に入賞するなど、古舘伊知郎が「納豆走法」と表現した粘りっこい走りは今も記憶に残る。そして何より中嶋がいたからこそ、F1は日本で市民権を獲得し、ファンは鈴鹿へと馳せ参じた。その中嶋と鈴鹿の縁は、四半世紀以上前に遡る。

 「はじめて鈴鹿を走ったのは'72年の7月。僕は愛知県出身だから、必然的に鈴鹿で練習してました。当時の鈴鹿は今とは全然違う。自然の地形をそのまま生かした感じだったから、S字のところなんか山は迫り出してるし、木の枝が伸びて影になって、どこもかしこもブラインドになってた。だから先がひとつも見えなくて、一寸先は闇。初めて走った時は、どこまでも曲がってるなって感じたのを覚えてる。それに舗装からガードレールまでは2mか3mくらいしかないし、おっかなかったね。それから山を削ったり、安全面を考えてエスケープを広くしたりして、コース自体はずいぶんと変化しました」

 F1は経済状況と密接に関連するスポーツでもある。'80年代から'90年代にかけてのF1ブームはバブル経済と切り離しては考えられないし、中嶋が鈴鹿でデビューした'73年はちょうどオイルショックが世界中に影を落としていた。

 「オイルショックの時は、鈴鹿は本当に空いてた。だから思う存分練習できて、ラッキーだったよ。みんなガソリンが高騰してなかなか乗れなかったんだけど、ウチは実家がガソリンスタンドだったから……黙って入れて練習に行ってた(笑)」

 中嶋が鈴鹿でドライバーとしてデビューしたのは'73年の鈴鹿シルバーカップ。この時は3位に入っている。そしてそれから苦労を重ね、最高峰であるF1にたどり着いたのが'87年。鈴鹿には凱旋帰国となった。

 「その時は見栄を張って、『16個のGPのうちのひとつです』とか言ってるんだけど、それってプレッシャーがある証拠(笑)。やっぱり自分の国に帰ってきて、いいところを見せたいですよ。自分も初めて両親をレースに招待したりもしたんです。やっぱりそれまで自分を応援してきた人たちに最高峰のレースを見てもらいたかった。でも、'87年に何が驚いたかって、ずっと見てきた鈴鹿の景色が一変してたこと。それまではレースを走ってても草木とか、芝生とか結構、緑が印象に残ってたんだけど、とにかく人、人、人。走ってる方からすると、鈴鹿であって鈴鹿じゃないって感覚だった。それは仮設スタンドが出来たというのが大きいんだけど、それが毎年増えていくことになった。いやあ、とにかく目に映るものがまったく違ってた」

 仮設スタンド、視聴率。F1に関することすべてがものすごい勢いで膨らんでいった。そして'91年に引退。鈴鹿のラストランは日本のF1界にとって一つの時代の区切りだった。

 「本当は4年目が終わった'90年に辞めようと思ってた。この年からアレジがチームメイトになって、そのアレジがモナコでティレルの重いハンドルを縁石に乗り上げながらものすごい力でねじ伏せていくんだよ。それを見て、ああこれは僕の出番じゃないな、って思ったんだ。それでモナコが終わった瞬間に、辞めようって決めた。でも、エンジンの開発は進んじゃうし、なんだか周りが辞めさせてくれない雰囲気になってきて、よし、もう1年頑張るかって思った。だから '91年の前半戦は結果には出なかったけど、サンマリノでも上位を走ってたし内容はよかったんです。モナコの予選も11位で悪くなかったと思うし、なんだ、モナコも簡単じゃねえかって思ったくらい(笑)。でも、気持ちと体がバラバラな状態で、もうこれ以上出るものはないぞって感じだったね」

 それでも、鈴鹿のラストランだけはやっぱり、いいところを見せたかった。

 「自分にとってつらかったのは、熱狂的に応援されてるのを肌で感じてるのに、それに応える力がないってこと。神様、もし一回くらい僕の言うことを聞いてくれるなら、終わりぐらい鈴鹿でいいところを見せてくれよって思ったね。でも、そうは行かないところがスポーツの世界。ぶつかってリタイアしたってのも僕らしいかなって。もっとファンの人たちを楽しませたかったという気持ちは今でも残ってますけどね」

 中嶋は引退後に「鈴鹿レーシングスクール・フォーミュラ」の校長を務め、そこから佐藤琢磨などが巣立っていった。

 「鈴鹿は比較的むずかしいサーキットなので、ここをまともに走れれば世界中のサーキットで走れると思う。ハード・ブレーキングが必要とされる箇所があり、リズミカルに走るS字あり、いろいろなパターンがあるから」

 そしてとりあえず、今年で鈴鹿からF1のサウンドは消える。鈴鹿で育った中嶋にとって、残念な決定だ。

 「鈴鹿って、いまもフォーミュラ・ニッポンで自分の職場でもあるし、振り返ってみると、自宅以外ではもっとも長く時間を過ごした場所だと思う。もちろん淋しさはあるよ。僕の理想としては1年おきに富士と鈴鹿で開催できればいいかなと。年に2回、同じ国でGPが開催されてしまうと、どうしても比較対象になってしまうし、GPって感じがしない。だったら富士と鈴鹿は性格が違うサーキットだし、ファンも交互に楽しめるのがいいよね」

 最後に中嶋は、自分が子どものころ、鈴鹿にレースを見に行っていた時のことを振り返ってくれた。

 「夜明け前にサーキットに着いて、車の中でゴロゴロしながら延々待つ。秋には朝露の中でだんだんと周りが明るくなってきて、9時とか10時になるとエンジンの音がしてくる。わくわくしたね。それが鈴鹿だった」

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