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松井大輔 欧州での試練を未来に生かせるか。 

text by

田村修一

田村修一Shuichi Tamura

PROFILE

posted2007/05/31 23:41

 松井大輔を日本代表に、という待望論は、ジーコジャパンの時代から根強く存在した。'05-'06年シーズン、フランス・リーグ1のアシストランク3位(8アシスト)となった松井は、中村俊輔と並びこのシーズンのヨーロッパで最も活躍した日本人選手であった。自ら突破してラストパスを出し、シュートも打てる松井は、代表にはいないタイプの理想のサイドアタッカーなのではないか──足元でしかボールを繋げないジーコジャパンの救世主となることを、彼は期待された。

 ところがジーコは松井を東欧遠征など計6試合に招集しただけで、ワールドカップの23人には選ばなかった。'05年11月のアンゴラ戦ではゴールをあげながら、その後ジーコが視察したルマン対サンテチェンヌのリーグ戦で、不慣れなトップ下でまったくいいところを見せられなかったのは、松井にとって不運であった。当時の松井は、間違いなく代表に選ばれて然るべき選手、ワールドカップに行って然るべき選手であった。

 とはいえ彼のプレーがジーコの琴線に触れなかったのも、何らかの理由があったのだろう。マネジメント能力には疑問符がついたが、ジーコの「選手を見る眼は卓越していた」(ある代表スタッフの証言)。ジーコの眼には松井の短所も端的に映っており、日本代表のジョーカーとするにはものたりなさを感じたのかもしれない。

 だが理由はどうであれ、最終リストから漏れたことは松井に大きな影響を与えた。

 「ワールドカップに行けなかったのが凄く悔しくて。代表に入りたくてリーグ戦も頑張っていましたから」

 落ちた瞬間には、さほどショックはなかった。あれだけやって駄目だったのなら仕方がないと、きっぱり諦めることもできた。ところが時間がたつにつれて、小さかったはずの心の傷が次第に大きくなっていく。

 「人間ってナイーブじゃないですか」

 ワールドカップへの思い、代表への思いは自覚していた以上に強く、それがリーグでのパフォーマンスにも影を落とす。

 「選ばれないなら、リーグ戦も試合に出なくてもいいやと思うようにもなってしまった」

 '06年12月2日、フランス・リーグ1第16節。王者リヨンをホームのレオン・ボレーに迎えた試合で、松井は以前から痛めていた腰をさらに悪化させてしまう。前半終了間際に蹴ったフリーキックで腰をひねり、ハーフタイムに自ら交代を申し出たのだった。

 「(状態は)そうとう酷いです。脊髄が詰って神経を圧迫している。日本でMRI検査を受けたいのだけれど、クラブがうんといわなくて」

 試合後に声を潜めて語る言葉の深刻さ、表情の切実さに驚かされた。あまりよくないとは聞いていたが、まさかこれほどまでとは想像していなかった。そしてこの日を最後に、冬の中断期間をはさんで約1カ月にわたり、ルマンのメンバーリストから松井の名前が消えた。イビチャ・オシムがクラブにレターを送り、今年3月のペルー戦で彼の招集を考えながら、最終的に見送ったのもコンディション不良が理由だった。

【次ページ】 腰の痛みで走れない日が次第に増えていった。

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