Sports Graphic Number MoreBACK NUMBER

関塚隆 叫び続けて早3年。 

text by

粕川哲男

粕川哲男Tetsuo Kasukawa

PROFILE

posted2006/09/28 22:26

──セレーゾ監督の下、ビデオの編集も担当されていたそうですが、具体的にどのような作業だったのですか?

 「内容自体は一般的な相手の分析ですが、昼夜逆転するぐらいの大変な仕事でした。セレーゾがチェックして、要点を自分に伝えて、それから編集を始める。睡眠を削るときもあったし、朝9時に意見を聞き、午後の3時までに用意するときもありました(笑)。そういう作業を行う事によって、チームの特徴や中心選手を見る目が養われたと思います」

──セレーゾ監督とのコンビは4年続いて、多くのタイトルを獲得しています。監督からの信頼も相当大きかったようですね。

 「それまで日本人をフォロー役に置く監督が多かったなか、セレーゾは戦術やトレーニングの意図を説明してくれました。常に自分を側に置いてくれたんで、それまでコーチとして積み上げてきたもの、おぼろげにつかみかけてたものが一気に開けたような感じでした。そういった意味では、監督としてスタートしてみたいと思わせてくれたのはセレーゾだったんじゃないかな」

圧倒的な強さで勝ち取った、クラブ悲願のJ1復帰。

 迎えた'04年、鹿島時代の実績を評価されて監督の座に就いた。11年をかけて培ってきたサッカーに関するすべてを、自らのやり方で表現する場を得たのである。

 しかし、川崎は苦境にあった。'99年に念願のJ1昇格を果たしたが、'00年に最下位となり1年でJ2降格。それから3年をかけて再び昇格に近づいたが、'03年は勝ち点1差で絶望を味わった。J2所属が長引けばチームを離れる有力選手が増え、新加入選手も代表クラスとはいかない。観客が減れば収益が減り、強化費も限られるという悪循環だ。だからこそ降格4年目となる'04年、J1昇格は厳命だった。新人監督が己の理想を追求できるほど恵まれた環境ではなかった。

 決断は早かった。選手たちの力を最大限に引き出すため、コーチ時代に手応えを感じていた4バックの導入を諦め、川崎が伝統的に採用していた3バックに方向修正。その結果、関塚新監督に率いられた川崎は軌道に乗り、シーズンを通して圧倒的な強さを見せつけた。8試合を残しての昇格はJ2史上最速記録。最終的に2位・大宮アルディージャとの勝ち点差は6勝分にあたる18。104得点、38失点という驚異的な数字を残して、5年ぶりにJ1に復帰した。

 そして昇格2年目の今季は、持ち前の攻撃力(22節を終えて55得点はリーグ2位)に加え守備力も安定(同じく28失点は3位)。さらに、外国人選手と日本人選手の高次元での融合など多くの強みを発揮することで、J1制覇を現実的な目標としている。

──川崎の監督に就任されたとき、何を考え、どのようにチーム作りを進めたのですか?

 「監督をやりたいって欲求が、やってやるって気持ちに変わって。ただ、前年に勝ち点1差で昇格を逃したチームにパッと入って、自分の色が出るわけがない。マルセロ(フィジカルコーチ)と2人で練習内容を決めて、いざスタートしてみると前のスタイルが残ってるわけですよ。結局、昇格の一歩手前まで来たチームを預かったわけだから、翌年に昇格という目標から逆算して、その段階で何をすべきかを考えました。前のスタイルと自分のやり方とのすり合せって面では、高畠、エジソン両コーチ、古川GKコーチ、アルベルト通訳、彼らの協力があって初めて本当のスタートが切れました」

──そして現在、J1昇格2年目で優勝争いを演じているわけですが、ここまでやれるという予測はあったのでしょうか?

 「いや、どこまでいけるかなんて想像もつかなかったし。とにかく1年目は上がるために必死、2年目は落ちないように必死、いまはいまでタイトルに向けて必死(笑)。だから野心があったわけじゃなくて、目の前の1試合1試合を大事にやろうってだけ。そのあたりは選手にも言ってます。ひとつひとつ最後まで戦う姿が、うちの強さですから」

【次ページ】 3年間で築き上げた、団結力に強みがある。

BACK 1 2 3 4 NEXT
関塚隆
川崎フロンターレ

Jリーグの前後の記事

ページトップ