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片山右京 「自分の存在証明を賭けた戦いだった」 

text by

田邊雅之

田邊雅之Masayuki Tanabe

PROFILE

posted2006/10/12 00:00

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[ドライバーが見た鈴鹿]片山右京 「自分の存在証明を賭けた戦いだった」

田邊雅之=文

text by Masayuki Tanabe

 片山右京は、中嶋、鈴木に次ぐ3人目の日本人ドライバーとして'92年にF1にデビュー。鈴木が'93年にフル参戦をやめた後、'97年末まで日本のF1ファンの期待を一身に担い続けた人物である。彼は今年限りで鈴鹿での日本GPが終わることを、どう受け止めているのだろうか。

 「心の中には二人の自分がいてですね。F1はすごくドライな世界で、こういうことがよく起きる。スパ・フランコルシャンやサンマリノのようなすばらしいサーキットでのレースが、突然廃止になっちゃうようなこともあるんですよ。だから残念がっている暇がないというか、ある意味では商業主義が徹底しているし、そういうやり方にも慣れているので、なんとも思わない自分がいるのは事実です。

 反面、日本GPは多くのドラマが生まれてきた舞台だし、膨大な量のデータの蓄積もあるから、鈴鹿と聞いただけで、あそこは何速で回ればいいとか、ダウンフォースのセッティングをどうすればいいのかといったことがやっぱり思い出される。だから寂しいという気持ちはどうしても感じてしまいますね。

 初めて鈴鹿を走ったのは'83年の10月でした。筑波で育った僕にとって、鈴鹿というのはすごく手強い相手だった。とても奥が深くて、面白いけど難しい、難しいけどチャレンジングしがいがあるっていうコースでした。

 僕の場合、全日本F3やF3000で初めてポールポジションや優勝を経験したのは鈴鹿だったし、もっと前にFJ(1600)でチャンピオンを決めたのも鈴鹿だったから、すべての場所に自分の匂いが染み込んでいるというか。鈴鹿の街には、いきつけの洋食屋さんや自分がバイトしていた所があったり、知り合いもたくさんいるから、日本GPで戻ってくるたびに、本当のホームに帰ってきたという安心感みたいなものがありました。

 で、ちょうどモナコの公道がグランプリの間だけ変貌を遂げるように、その自分の庭みたいな鈴鹿が、いきなり飾り立てられて日の丸と人に埋め尽くされる。鈴鹿が鈴鹿でなくなるというか、いつもとはまったく雰囲気が変わって日本GPの場所になっていく。

 それでレースが始まると、既にフォーメーションラップの段階から、1コーナーからカメラのフラッシュのウェーブが起きて、ホーンが鳴らされて旗が打ち振られて……。日本人にとって日本GPは特別だし、スポーツという枠を超えて、『今年もなんとか生きて帰って来られた。怪我をせずに現役を続けられてよかった』と感じる部分も強かったですね。僕は幸い6年もF1で走らせてもらいましたけど、引退を発表したのも鈴鹿でしたし」

 片山が最も輝いていたのは'94年である。この年は、シーズンを通じてハインツ-ハラルド・フレンツェン等と好勝負を展開。予選と決勝で、それぞれ2度ずつ5位に入っている。

 不運なことに、日本GPでは一度も結果を出すことができなかったが、マシンやチームに必ずしも恵まれていなかったにもかかわらず、限界までアグレッシブに攻め続ける姿勢は、F1関係者から高く評価され続けた。

 「はっきり言うと日本GPの思い出は全部ほろ苦い(苦笑)。責任感云々というより、僕自身なんとしても結果を出したいという気持ちがあったけど、それが空回りして(佐藤)琢磨のようにはうまくいかなかった。

 '92年は完走しましたけど、'94年は調子がいいのに雨になっちゃって。せっかくの日本GPでなんで雨なのかなあなんて思ってたら、案の定ストレートでスピンしてクラッシュしてしまった。'96年はマシンの調子が良かったのにフェルスタッペンと絡んだし、'97年は最後だから少しはいいところをみせたいと思っていたらエンジンが壊れた。物事ってなかなかうまくいかないなあと感じましたね。

 ただ、もちろんいい結果をだすことが最終的な目標なんだけど、自分には結果より大事なものがあったというか、『闘争心』というものを最大の目標にしていたから、そういう意味では悔いはありませんでした。

 正直言って、自分は決して才能がある方ではなかったと思う。中嶋さんや亜久里さんはベテランでカートの経験なんかもあったけど、僕の場合は、18歳で教習所で免許をとって20歳からレースを始めて、そこから8年でF1までたどり着いたわけでしょう?だから『片山は一番のドライバーだ。才能がないのにF1まで行ったんだから』って言ってくれる人はいまだに多いんだけど、それは最高の誉め言葉なんです。自分で『刺身のつまだ』なんて言ってましたし、だからこそ良くも悪くも空回りしちゃってスピンしたりリタイアしたりしたわけだけど、スリップストリームに入ったら必ずブレーキングでインに入っていくとか、縁石をぎりぎりで舐めて少しでもタイムアップを狙うとか。ジャン(アレジ)も同じタイプだったけど、常に戦い続けられる人間でありたいと思って、これまで生きてきました。

 F1は自分の存在証明を賭けた戦いだったし、ちょっと前時代的かもしれないけど、日本人のアイデンティティーを賭けた、ナショナリズムの戦いでもあった。だから守りに入って完走を狙ったりするよりは、たとえミスをしてしまっても、毎回、勝ちを狙って必ず攻め続けるというのをフィロソフィーにしていたんです。周りのスタッフには申し訳なかったですけど(笑)、そういうところが鈴鹿に来てくれた日本のファンのみんなにも伝わったんだとしたら、僕はすごく嬉しい。

 でも、'93年と'97年の予選では本当にいい走りができた。特に'97年の日本GP、2セット目のタイヤを使ったタイムアタックでは、S字も130Rも全開で回って、タイム的にもデータ的にも、100点満点で99点をあげられるようなアタックができたんです。『車の性能なんて関係ない。俺はとにかく全開で回り切ったよ』と胸を張って言える内容だったし、あれは自分がリアル・レーシング・ドライバーになれた瞬間でもありましたね」

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