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男は黙ってボンバーヘッド。 

text by

戸塚啓

戸塚啓Kei Totsuka

PROFILE

posted2004/08/26 00:31

 大会MVPは中村俊輔が受賞した。決勝戦のマン・オブ・ザ・マッチには、川口能活が指名された。それでも、日本代表のアジアカップ連覇に貢献した選手として、中澤佑二の名前を挙げないわけにはいかないだろう。

 強い。とにかく強かった。アジアカップでの中澤を、端的に言い表すとこうなる。

 1対1ではまず負けない。ポストプレーに入ろうとするFWの背後から、クリーンかつハードにボールを奪い取る。ドリブルで突っかけてくるFWとの1対1も同様だ。あっさり飛び込まず、それでいて下がり過ぎない。適切な間合いで相手のスピードを殺し、最終的にはボールを刈り取る。身体能力が高いためにガツガツとマークするイメージの強かった中澤だが、そのディフェンスは柔軟性に富んでいた。もちろん、彼にとって最低限の仕事と見られていた制空権は、100%に近い確率で支配した。

 6試合フル出場で、警告を一度も受けていない。それどころか、ボールを奪うために相手を倒すこともあるDFでありながら、ボールを奪い返そうとするFWにファウルされることもしばしばだった。

 暑さと連戦による消耗をできるだけ避けるためには、最終ラインをつねに押し上げたコンパクトなサッカーは現実的でない。相手FWに前を向かれることを許し、1対1で止める選択肢も受け入れざるを得なかった。DFにしてみれば、もっとも避けたい局面である。

 それだけに、ファウルをしないでファウルを誘うプレーが、疲弊したチームをどれほど救ったことだろう。中澤がプレーに関与していれば、自陣の深いゾーンでも危機を感じることはなかった。彼と相手FWのマッチアップのあとには、必ずといっていいほどチームが落ち着きを取り戻していた。大会全体を見渡しても、中澤ほど頼りになるDFはいなかった。

 ジーコ監督のもとでは、遅れてきたタレントである。このチームで初めて国際Aマッチに出場したのは、昨年10月8日のチュニジア戦だった。3日後のルーマニア戦でも及第点以上のパフォーマンスを披露し、12月の東アジア選手権でも3試合のうち2試合に先発する。だが、当時はまだ4バックがチームのベースだったこともあり、レギュラー奪取には至らなかった。

 3バックへ移行するターニングポイントとなった4月の東欧遠征でも、中澤はジーコに決断を促す役割を担っていない。メンバー発表後に右肩鎖骨を脱臼してしまい、遠征参加を辞退していたのだ。彼が3バックの一角を占めるようになったのは、5月末の英国遠征からである。

 控えの時期が長かっただけに、これまでの悔しさをアジアカップにぶつけたと言われることは多い。県大会レベルの勲章さえないまま高校卒業後にブラジルへ渡り、テスト生としてヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ1969)に入団したプロ入りまでの道のりも、「雑草」と呼ばれる男の原点としてクローズアップされた。

 スタメンとしての責任感は感じていた。

 「サブの選手たちの存在は大きい。試合に出る選手をすごく盛り上げてくれるんですよ。選手以外の裏方の人たちの力も大きいし、チーム全体で戦っている」

 試合後のインタビューで、中澤はチーム内の一体感を必ず勝因に挙げていた。かつての自分と同じ立場にある選手のためにも、フィールドで妥協などできるはずがないという気持ちはあっただろう。そのうえで、ようやく巡ってきたチャンスに懸ける思いや、エリート集団の代表では異色のキャリアが、上質のパフォーマンスを引き出す原動力と考えるのも間違いではない。

 ただ、4年前のアジアカップやシドニー五輪にも出場している中澤には、プロ入り後に培ってきた自分なりのバックボーンがある。Jリーグで6シーズン目を過ごし、国際Aマッチ26試合出場を数えるDFを分かりやすいストーリーにハメ込んでしまうのは、彼の本質を見誤ることになると思うのだ。

(以下、Number609号へ)

中澤佑二

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