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山本昌邦が語る'79年組の実像。 

text by

戸塚啓

戸塚啓Kei Totsuka

PROFILE

posted2006/10/26 22:32

SPECIAL FEATURES

[指導者が見たもの]山本昌邦が語る'79年組の実像。

戸塚啓=文

text by Kei Totsuka

 彼らとの最初の出会いは10年以上前ですね。小野伸二、稲本潤一、高原直泰……このあたりは中学生の頃から知っています。'95年にエクアドルで行われたU-17世界選手権のメンバーに彼らがいて、当時の僕はひとつ上のカテゴリーで仕事をしていた。その関係で試合や練習を観に行ったりしていました。

 過去を振り返ると、U-17のアジア予選に出た選手が、必ずJリーガーになっているかといえば、そうではない。U-20で日本代表になるような選手は、ほぼ100パーセントの確率でプロへ行く。けれど、U-17ではそこまで到達できない選手も少なくないんです。

 でも、彼らの世代は世界へ出たことですごく自信をつけた。成長していった。同世代の世界のライバルを知ることで、「もっとやらなきゃいけない」というモチベーションを持つことができた。U-17の世界大会は― '85年から始まっていたけれど、アジアの予選を初めて突破するという成功体験を得て、世界で戦うために足りないものを感じ取ることができた。そういう過程を経て、いわゆる「'79年組」というものに進化していったんだと思う。

 世界大会に出るメリットは、世界の強豪と戦えることだけではない。たとえばエクアドルなら高地との戦いがあり、時差の問題もある。あの大会ではジャッジにも泣かされた。言葉で説明する以上に、本質的な部分を実際に感じ取ることができるのは大きいんですよ。

 もうひとつ、本大会は予選の1年後に開催されることが多いので、そのぶんだけ強化期間が延びる。1年の間に海外へ行ったり、海外の強豪を呼んだり、もちろん合宿もある。選手同士の競争意識が激しくなる。予選段階では調子を落としていた選手が、本大会までにレベルを上げてくることもある。道が続いていれば、一度沈んだ選手が浮上してくることもあるんです。そうやって鍛えられていくんですよ。

 時代の後押しもありましたね。'02年のワールドカップを日本と韓国で開催することは'96年5月に決まったんですが、決定前に行われる世界大会にはすべて出場するんだという雰囲気がサッカー協会にあった。そのための投資として、彼らが参加したU-17は合宿や遠征を相当こなしたはずですよ。Jリーグが発足して予算に余裕が生まれたことで、暑熱対策のような事前の準備も充実していったんです。これはもう時代の背景と無関係でないでしょう。強化のために必要なことが、少しずつできるようになっていった。

 トレセンの変化も大きかった。ちょうど彼らが選ばれた頃から、いい素材がじっくりと刺激し合える環境が出来上がっていった。それまでのように地域ごとの選抜チームが試合をするだけでなく、トレーニングも含めたプログラムのなかで、個々の選手に刺激的な経験をさせることができるようになっていった。選手を選考する網の目も、細かくなっていきましたからね。

 だからといって、'79年組が特別な世代だという考えは違うと思う。若年層から世界へ飛び出していったのは、彼らだけじゃない。ワールドユースでは '95年、'97年と2大会連続でベスト8に勝ち残っていた。そうすると、次はベスト8を超えよう、と思うのは普通でしょう?― だから'99年の大会に臨む彼らは、「ベスト8じゃ評価されない」という認識をはっきりと持っていた。

 大会前には「優勝しなきゃな」という雰囲気がチームにあったし、「オレたちなら優勝できるよ」って言葉にしていた。僕は「世界はそんなに甘くないぞ」と思っていたけれど、彼らにすれば過去の成績を追い越さないと自分たちの評価が上がらないから、追い抜くしかなかったんですよ。

 そういう意味で、この世代から急に強くなったという認識は大きな間違いです。過去2大会のチームがベスト8入りしたから、彼らはそれ以上の目標を持つことができた。それから、日本サッカー協会のサポート体制が、試行錯誤を繰り返しながらだんだんと整っていったところもあった。ここにも時代の恩恵はあったわけです。

 '99年のナイジェリアでのワールドユースでは、幸運に恵まれているんです。初戦でカメルーンに1-2で負けて、それで終わってしまってもおかしくなかったのに、アメリカとイングランドに連勝して逆転で首位になった。ポルトガルとの決勝トーナメント1回戦では、相手GKがケガをして、3人代えていたあとだったからMFの選手がGKになった。そのうえ相手は10人ですよ。それで、PK戦で勝つことができた。

 そういうギリギリのところを乗り越えていったんだけど、それは彼らに運があったからでもある。その運がまた、価値ある経験をもたらしてくれた。

 たとえばベスト16とベスト8では、たった1試合しか違わない。でも、その1試合の重みは計り知れないものがあるんです。

 次の試合までには飛行機での移動もあるし、デコボコのグラウンドで練習をしなきゃいけない。しかも身体はボロボロで、精神的にもキツくなってくる。そういう状況でも、中2日の大一番に気持ちを奮い立たせていく。身体だけじゃなく心が磨かれていきますよ。その1試合の、3日間の経験の違いがハートを強くするんです。

 トルさん(トゥルシエ)との出会いも、彼らにとっては幸運だったでしょう。彼のコネクションは相当に生きたから。事前にブルキナファソへ遠征したのも、トルさんじゃなければ絶対に組めなかった。西アフリカの国とコネクションがある人間なんて、当時はサッカー協会内にひとりもいなかったし。

 そういうところへ行って、「え、これ何?― これを食べんの?」とか「こんなところに泊まるの?」という環境のなかで生活をする。これは鍛えられますよ。多少のことでは動じなくなる。免疫ができる。食事にしても、自分たちで工夫するようになるんですよ。

 ワールドユースのときには、「ああ、これぐらいなら快適、快適」なんて言って、環境の厳しさを楽しむような余裕があった。逆にヨーロッパのチームは、暑さにやられていた。こっちはアフリカの環境は経験済みで、デコボコなグラウンドにもストレスを感じない。周りのチームのコンディションが落ちていった、というのはありましたよ。大会が長期に及ぶと、本当に消耗しますから。僕なんて、ナイジェリアから帰ってきたら体重が5キロも減っていたし。

 あの世代の選手たちは、中学生ぐらいから勝つことが当たり前だった。大会で勝ち進めば、一緒にいる時間が長くなる。長くなるほどストレスは溜まる。海外ならなおさらです。そこで自分をさらけ出して、みんなで助け合っていくことで、「ずっと同じチームでやってきたからな」という意識が芽生えていったんだと思う。本当に厳しい環境に立たされると、自分をさらけ出すしかない。カッコつけてもしょうがないですから。

 アフリカでの練習中に、小笠原満男がトルさんにビブスを引きちぎられたことがあった。「日本に帰れ!」と。練習が終わると、他の選手が小笠原をなだめる。「みんなで頑張ろうぜ」という雰囲気になる。アフリカからなんて、ひとりじゃ帰れないですからね。だから楽しくやるしかない。そういう時間を多く持つことで、お互いが助け合い、個人が強くなっていったのは間違いない。

 もともと彼らはノリもいい。みんなでワイワイやれば楽しいじゃん、という感じがあった。ワールドユースのときには、いきなり坊主頭が増えたりした。選手の誰かがトルさんに怒られて、「お前は坊主だ」とか言われてホントに坊主にしたら、「これ、涼しいぞ」となって。それで誰かが寝てる間に、「あいつの頭を刈っちゃおうか」なんてことをやっていた。そんなことぐらいしか楽しみがないんだけど、大会を乗り切るにはそういうことも必要だってことを、彼らは気づいたんだと思う。

 トルさんは「コミュニケーションをとれ」と言って、携帯電話を一切使わせなかった。「食事が終わってもすぐに帰るな」とも言っていた。それもまた、チームを結束させていったんじゃないかな。

 リーダーは伸二でしたね。高原や加地亮はそれほど明るいキャラクターじゃないし、小笠原だってどちらかといえば黙っていることが多い。でも、伸二がいたから、彼を中心とした明るさが生まれていた。彼はボール扱いも卓越していたし、チームのみんなが認めていた。

(以下、Number664号へ)

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