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さらば、石田文樹。美しき裏方人生。 

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永谷脩

永谷脩Osamu Nagatani

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posted2008/08/07 00:00

 ユニフォーム姿の横浜ナインが見守る中、同期入団の石井琢朗が弔辞を読んだ。しかしほとんど声にならない。

 7月15日に直腸ガンのため41歳で他界した、横浜の打撃投手・石田文樹の葬儀のことである。甲子園を沸かせながら、鳴り物入りで入学した早稲田大を中退。社会人を経て横浜に入団したものの、プロの世界では思うような結果を残すことができなかった。

 「自分が恩返しできることは裏方としてチームを支えること」と、打撃投手として黙々と投げ続けた、誠実で明るく、チーム愛にあふれた男だった。

 石田文樹に初めて会ったのは、高校3年生の夏の甲子園前だった。石田の通う取手二高の監督は木内幸男(現・常総学院高監督)。父母会の席上で「今からいくら勉強しても東大には入れない。ただし、東大に入学するよりも難しい甲子園に出場できれば、有名な大学に入ることができる」と野球に専念できるように、ハッパをかけていたのを思い出す。

 快進撃で勝ち進み、決勝では桑田真澄、清原和博を擁するPL学園に延長10回の末、8対4で打ち勝ち、全国制覇を成し遂げた。敗れた桑田は、「大舞台でどうしてあれほどのびのびと野球ができるのか」と不思議に思い夏休みを利用して、茨城にある石田の実家を訪れたほどだった。

 木内監督の言う通り、甲子園の優勝により早大に推薦入学するが、大学の体質になじめず、すぐに中退。日本石油を経て、ドラフト5位で横浜へ。実働6年で25試合に登板。1勝0敗の成績を残した。

 現役を引退した後は打撃投手を務め、'98年には38年ぶりの日本一に貢献した。

 当時、中心選手として活躍した石井琢朗、鈴木尚典、ローズらのバッティング投手を務め、監督だった権藤博からは「アイツが文句を言う姿を見たことがない。打者を気持ちよく試合に臨ませてくれるタイプだよ」と陰からチームを支えた功績を高く評価されていた。

 今年の宜野湾キャンプで会った時、長男が自分と同じ県立校で野球をやっていて、昨夏ベスト8に進出したから、今年は楽しみだと話していた。高校野球担当記者によれば、「首をやや右に傾けて、親父そっくりのフォーム」だと言う。県予選で息子が力投し、2回戦突破に導いたのは、親父が逝った翌日のことだった。

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