SCORE CARDBACK NUMBER

愛すべきプロレスの原点、
後楽園ホール45周年。 

text by

門馬忠雄

門馬忠雄Tadao Monma

PROFILE

photograph byEssei Hara

posted2007/04/19 00:00

愛すべきプロレスの原点、後楽園ホール45周年。<Number Web> photograph by Essei Hara

 全日本初の試み、平日の東京・後楽園ホール5連戦。3月30日の'07チャンピオン・カーニバル最終戦、終わってみればV予想ではノーマークだった武藤敬司(44)の3年ぶり3度目の優勝。

 この大会、そもそも武藤社長の発想は、新日本で行った'90年8月、橋本真也が軸となった日本選手のみの「バトルホール・ア・ウィーク」7連戦超満員という驚異的な興行レコードにあったと思う。

 今回、外国人選手の出場は巨漢のロージー(RO'Z)のみ。移動経費が一切かからず、人気低迷という時代に見合った省エネ興行なのだ。3日目、4日目はともに1200人と不入りであったが、最終日は2100人の超満員札止め(数字はいずれも主催者発表)。5日間の観客動員数は7500人。1人の負傷欠場選手もなく終わりよければすべてよし。ウイークデーという事情を考慮すれば成功だったといえる。大都市における一極集中型の大会は、今後の興行のアイデアと企画に、いくつかのヒントを与えてくれたことは確かだ。

 振り返れば、1962年1月に開設された後楽園ホールは今年で45年を迎えた。日本テレビとスタジオ契約を結んだこの多目的ホールはバラエティー番組やショーばかりではなく、プロボクシングの常打ち会場として一般ファンに浸透した。プロレスの進出は、日テレの仲介によって'66年11月25日、日本プロレスの興行が最初だった。思い起こせば、プロレス興行は40年の歴史を刻んだことになる。

 ムトちゃん(武藤)の思い入れが強いように、筆者もまたこのホールへの思い入れは人一倍強い。現在、メディアの発する「殿堂」や「メッカ」という言葉にはいまだ違和感を抱く。筆者にとってのプロレスの殿堂は、力道山時代の東京・渋谷のリキ・スポーツパレスしかない。

 後楽園ホールが開設された年、筆者のスポーツ記者としてのキャリアがスタートした。ボクシング、水泳担当などを経て、「プロレス担当」の辞令を受けた。実はそれが本意ではなかったのだが……。

 東京は外堀通りと白山通りの交差点の駐車場跡地に複合施設「ミーツポート」が来春オープンする。約2500席3000人収容の多目的ホール。ともに(株)東京ドームの経営だ。筆者にとっての後楽園物語〈第2章〉が始まる。

■関連コラム► 失われる昭和の記憶。大田区体育館を惜しむ。 (08/04/03)
► 新日本再建の鍵は、都会の“小さな箱”。 (06/06/08)

関連キーワード
武藤敬司
全日本プロレス

ページトップ