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古き佳き時代の英雄、パターソンの死を悼む。 

text by

前田衷

前田衷Makoto Maeda

PROFILE

posted2006/06/08 00:00

 半世紀近く前のヘビー級王者フロイド・パターソンが71歳の生涯を閉じると、米国のメディアはこぞって力の入った追悼記事を掲載した。筆者同様、ケネディ大統領時代のスポーツ英雄に深い惜別の念を覚えたからに違いない。

 自伝の題名が「ビクトリー・オーバー・マイセルフ」だったように、努力すれば報われるという、理想に溢れたケネディの時代を象徴するような王者だった。

 「もしボクシングと出会わなかったら、今頃はとっくに死んでいるか、塀の中の暮らしをしていただろう」。生前にこう語っていたように、ニューヨーク・ブルックリンのタフな地帯でたびたび警察の厄介になる問題児として育った。矯正施設に入れられ、ボクシングと出会い、史上最年少(当時)の世界ヘビー級チャンピオン──まるでマイク・タイソンの前半生と瓜二つだが、二人はカス・ダマトという同じ師をもつ「兄弟弟子」だった。

 しかし、スキャンダルまみれのマイクとは対照的に、柔和な顔立ちのフロイドは誰からも「ナイス・ガイ」と尊敬される紳士だった。特にニューヨークのメディアや作家たちはバイオレンスとほど遠い、心優しくシャイな王者を愛した。

 '59年スウェーデンの雷・ヨハンソンに7度も倒される惨敗を喫して世界ヘビー級王座を追われながら、翌年の再戦では豪快なKO勝ちで王座を奪還。「ヘビー級王者はカムバックできない」というジンクスを初めて粉砕したこの試合が20年に及ぶリング歴のクライマックスである。

 師匠ダマトの前では従順なモンスターだったタイソンとは異なり、パターソンは、師に敬意を払いつつも最後には袂を分かつ。当時暗黒街との繋がりも噂されたソニー・リストンとの対戦を、ダマトの反対を押して受諾したのがコンビ解消のきっかけだった。やはりリストン戦を望まなかったケネディ大統領に、パターソンは「タイトルは強い者が挑戦できなくては価値がないのです。彼にはその資格があります」と申し訳なさそうに答えたという。'62年の試合では24ポンドも重いリストンの強打を浴び、わずか126秒でKO負け。再戦も同じ初回で沈められた。ダマトの悪い予感が当たったが、誇り高き王者は難敵の挑戦から逃げたという汚名を背負いたくなかったのだ。その潔さも、パターソンの魅力であった。

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