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スポーツ仲裁機構の存在意義を問う。 

text by

鷲田康

鷲田康Yasushi Washida

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posted2004/08/12 00:00

 7月14日、日本スポーツ仲裁機構は馬術障害の加藤麻理子選手(RCアルカディア)が日本馬術連盟を相手取ったアテネ五輪の代表決定取り消しと自身の代表選出を求める仲裁申請を棄却した。今回の決定では、最終的に加藤側の主張を退けたものの、日馬連に対して選考で「いくつかの不適切な面があった」と問題点を指摘、強く改善を求めるものとなった。だが、その一方でそうした不適切さも代表決定を覆すほど「著しい不合理さはない」として、選考のやり直しは退ける決定となった。4年前のシドニー五輪で水泳の千葉すず選手がスポーツ裁定裁判所に同様の申し立てを起こしたときと、ほぼ同じ内容の決定で、それは裁定を申し立てた時点から予想された答えともいえた。

 だが、それでは4年前の裁定はいったい何だったのだろうか? 勧告を受けた水連はその後、選考方法を改善したが、その勧告の精神は水連だけが受け止めればいいものだったのだろうか? スポーツはプレイヤーのスポーツマンシップとそれを支える公正、平等の精神により成り立つ。もし、その精神が失われれば、スポーツはスポーツでなくなる。その意味では4年前に出された水連への勧告は、まさにすべての競技団体が自らへの勧告として真摯に受け止めるべきものだったはずだ。

 ましてや日馬連はバルセロナ五輪の代表選考で裏金工作が発覚、役員が総辞職した過去を持つ。いわば“前科一犯”であり、そういう意味では他団体よりもっと強く襟を正し、公正な代表選考に努めるべき団体だったはずだ。シドニー五輪では不透明さを排除するため一発選考に切り換えたが、執行猶予がとけたとばかりに、今回は本部長一人が全権を持つという非常に主観性の強い選考方法に戻してしまった。その結果が、仲裁機構も不透明さを認める今回の代表決定だったわけだ。

 一般的な司法裁判なら、不公正、不平等を認めながら社会的な影響も考慮して決定されても仕方がないが、これはスポーツの世界のことだ。まず求められるのはスポーツマンシップであり公正、平等の原則なのだ。ここで不公正、不平等を看過してしまえば、それはスポーツそのものへの「死」宣告に等しい。それを見誤り、単なる法解釈に止まる裁定は、スポーツ仲裁機構そのものの存在意義をも問われると言わざるを得ない。

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