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日米ゴルフ交流に思う、プレーヤーのあり方。 

text by

三田村昌鳳

三田村昌鳳Shoho Mitamura

PROFILE

posted2004/10/07 00:00

 青木功、樋口久子、そして岡本綾子の三人が日米交流150周年記念外務大臣表彰を受けた。

 樋口久子が米女子ツアーに初めて参戦したのは、確か'70年だったと思う。当時は、日本女子プロトーナメントは年間3試合ぐらいしかなく「試合に出て腕を磨きたい。そのためにはアメリカのツアーに行くしかない」というのが理由だった。

 僕が初めて米ツアーを取材したのは、'73年全米オープンで、その頃は、1ドル360円から、ようやく変動制に変わって300円前後だったと記憶している。そのとき樋口が出場していたパームスプリングスの大会を取材して、彼女の借りていた家で手料理をご馳走になった。樋口はその後、'77年全米女子プロ選手権に優勝した。

 青木功がマスターズに初出場したのは'74年で、その前年にジャンボ尾崎が東洋人として初めて8位という好成績をおさめ、AO時代の幕開けとなった。日本のゴルフブームは、この時期から始まる。

 アメリカに初めてゴルフコースができたのが1888年、日本は1901年である。わずか13年の違いだ。けれども、日米のゴルフ環境の差は、大きくかけ離れてしまった。

 日米のゴルフの関わりは実はかなり古い。日本人ゴルファー第1号と言われる水谷叔彦は1896年、英国でゴルフを覚えて日本に持ち帰った。実は、ほぼ同時期に新井領一郎という人物がアメリカでゴルフを覚え、日本でゴルフをさかんに勧めていた。その後、プリンストン大学に留学していた赤星六郎が、留学中、1924年パインハースト・スプリングトーナメントに優勝。後輩にあたる近衛文隆も同大学ゴルフ部のキャプテンを務め、帰国している。残念ながら、近衛は第二次世界大戦でシベリアに抑留され、客死。もし近衛が生還していれば、日本ゴルフ界はアメリカにもっと早く近づけたという人もいる。

 青木は「僕たちに続く若手がどんどん出てくれば、日本のゴルフ界は変わる」と語る。

 思えば、船旅で米ツアー挑戦をしていた時期があった。1935年には、マスターズ招待を受けても、船旅の日程の都合で参加を断念したという今では信じられない話もある。

 便利ないま、もっと日本の若手が米ツアーに挑戦して欲しいと思うのだが……。

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