≪昭和五十八年五月二十九日、堀内恒夫は、甲子園球場でおこなわれた阪神タイガース戦に先発した≫
海老沢泰久氏の『ただ栄光のために-堀内恒夫物語』(文春文庫)の書き出しである。
堀内にとって現役最後のシーズン、この試合で通算203勝目を刻む。さらにシーズン終盤、“引退試合”でホームランを放った日を描いて物語を締めくくっている。
≪「パパってすごいんだね。ホームランも打てるんだね」
彼は父親のホームランを生れてはじめて目のあたりにしたのだった。堀内は車のハンドルに手をかけながら息子に笑いかけ、そしてこういった。
「いまごろ分るなんて遅いぞ、おまえ。おまえが生れるまえには、あんなことはしょっちゅうやっていたんだぞ」
それから彼は車をスタートさせた。もう夜になっていた≫
文庫版の解説者、丸谷才一氏は「海老沢は正統的な散文を書く」「決して情緒過多におちいらない」「西欧ふうの機能的で乾いた文体」と評しているが、作家・海老沢泰久についてのキーワードはまず文体にあろう。スポーツ界も、またスポーツを伝える側の文体も湿気を含みがちなこの国においては珍しい存在だった。
海老沢氏が著書で取り上げたのはプロ野球の広岡達朗、F1の中嶋悟、ゴルフの岡本綾子、あるいはフランス料理の辻静雄、シンガーソングライターの井上陽水らであったが、人物像はいずれもナニワブシとはほど遠い。素材からして“クール系”である。それは氏の嗜好であり、人としての資質に由来していたのだろう。
カネまみれになっていくスポーツ界を、最後まで憂いていた。
海老沢氏とは年一回、ナンバー新人賞の選考会で顔を合わせてきた。選考委員にも好みがある。抜けた秀作があるときは別にして、最終候補作がドングリの背比べであるとき、それが出る。文体が簡略、シンプルに事実をもって面白さを伝える作品が氏の好みであった。
私がこれは落とすのが惜しいと思ってぶつぶつ作品を擁護していると、「これは駄目」とあっさり否定されてしまう。かように意見が異なることはよくあったが、氏の論拠は常に明瞭であって、選考という場においても湿気がなかった。
いつも意見が一致したのは近年のカネまみれのスポーツ界への憂いと、それと軌を一にするスポーツ・ノンフィクションのやせ細りである。良き物語を発掘するメディアが衰えれば、それはスタジアムの熱気を損ない、ひいてはフィールドの衰退へとつながっていく。
氏はプロ野球とジャイアンツの熱いファンであったが、目先の勝ちだけを追い求める薄っぺらな結果主義への強い批判者でもあった。硬骨ぶりは『巨人がプロ野球をダメにした』『プロ野球が殺される』などの表題によく現われている。
作家・海老沢泰久について特筆すべきことは、ノンフィクションとフィクション・ノベルの二刀流を際どく成立させたことであろう。『監督』は広岡達朗を、直木賞受賞作の『帰郷』はF1のエンジン技術者をモデルにしたノベルであったが、ノンフィクション的禁欲とノベル的装飾がうまく混合されていた。近年は時代小説や恋愛小説など本格的な小説世界へ乗り出しつつあった。病魔が道半ばでの中断を強いた。唐突なるピリオド。惜しみても余りあるが、氏らしく、冥府への旅立ち方もまた湿気がなかった。
『プロ野球が殺される』(文春文庫)として9月4日に小社から発売されました。
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(更新日:2009年9月5日)
筆者プロフィール
後藤正治
1946年、京都府生まれ。京都大学農学部卒。'90年『遠いリング』で講談社ノンフィクション賞、95年『リターンマッチ』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。『ベラ・チャスラフスカ最も美しく』『不屈者』『奇蹟の画家』など著書多数































